わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたも このわたしに倣う者になりなさい。     (11章1節)

  「倣う」は「真似る」の意味が強く、「習う」は「教わる」の意味が強くなっています。ですからキリストに倣う者とは、キリストをお手本にして真似る者になります。目に見えないキリストを真似るのは難しい。そこでキリストに倣う者であろうと努めている、この私に倣いなさいと言っています。

1歳半の孫と外を歩いていると、後ろ手をして歩いています。普通、子どもはそんな手の組み方はしません。どうしてなのか、すぐに分かりました。私が後ろ手をして歩いているからです。よく見ているなと驚きました。そのように幼子は、接している大人の真似をして育つのです。だから子どもの態度だけを直させるのではなく、親自らの態度を直すことが先だと気づきたいものです。。

キリストに倣い、キリストを真似る3つの要点は、

キリストの謙遜。神であるのに、ご自分を無にして貧しく低い人となられ、何の罪もないのに私たちの罪の身代わりとして、恥辱の極みである十字架で死なれたこと。その直前には屈んで弟子たちの足を洗われたのがキリストです。その謙遜さを真似たいものです。

キリストの祈り。主は朝早く起きて祈る習慣を持ち(マルコ1章35節)、父神に夜を徹して祈られました(ルカ6章12節)。何をする時でも祈られました。神との交わりである祈りは、呼吸のようになくてはならないものでした。キリストは神に願い事もしたでしょうが、感謝と信頼の祈りが中心でした。「わたしの願いをいつも聞いてくださることをわたしは知っています」(ヨハネ11章42節)と、先に祈られました。神への信頼から出る祈りは神に届きます。その祈りを真似たいものです。

キリストの愛。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか、とキリストは言われました。私たちの愛は条件付きで、自分中心です。ところがキリストの愛は全く異なります。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る愛です。私たちが愛されるに相応しいからではなく、私たちが罪人であった時、キリストは私たちのために命を捨ててくださったのです。この愛を、自分の努力だけで真似ることはできません。ではどうすれば良いのでしょう。
①②③すべては、キリストの内住を求めています。キリストが私の内に宿り、生きて働かれることが必須です。そのことによってキリストに倣いたいものです。