これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。(Ⅰコリント10章11節)
聖書の民の歩みは、過ちと失敗の歴史でした。その具体的な事例(金の子牛礼拝、青銅の蛇事件等)が10章5~10節に列挙されています。続けて、上記の聖句が来ます。先祖の歴史は前例であって、同じ過ちを犯さないようにとの警告なのです。パウロは「わたしたちに警告するため」と記して、決して他人事だとは考えていません。そのことは9章27節で、自分が失格者にならないためだ、と言っていたことからも分かります。
歴史を学ぶのは、先人の過ちを繰り返さないためです。聖書の歴史を知るのも同じです。そして、自分は大丈夫と考えないことです。その実例がペトロです。彼は主イエスが、「弟子の皆が私につまずく」と言われた時、「たとい皆がつまずいても、私(だけ)は決してつまずかない」と言い切ったのです。そう言った舌の根も乾かぬ間に、3度も主を否認したのです。鶏が鳴くのを聞いて、泣き崩れるペトロ。しかし、誰がペトロを批判できるでしょうか。そんなペトロを、振り向いて見つめる主の眼差し(ルカ22章61節)は温かい。
試練は突如、襲いかかるかのようにやって来ます。それに遭遇したら、自分の力(だけ)で乗り超えようとしてもできる事ではありません。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい(12節)と言われています。高慢さと、そこから来る根拠のない自信に気をつけるべきです。高慢が破滅に先立ち、謙遜が栄誉に先立つのは確かな事です。その上で13節:あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。神は真実で愛の御方ですから、意味のない試練を与えて、苦しませるようなことはなさいません。また、耐えられない程の重い荷を負わせることもなさいません。耐えられない時は、逃げても良いのです。水泳選手の池江璃花子さんを襲った白血病という試練と、彼女がそれを乗り超えたことを忘れることはできません。彼女に注がれていた温かな主の眼差しは、私たちの上にもあります。