むしろ、自分の体をうちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。 (Ⅰコリント9章27節)
今年8月に、東京でオリンピックが行われました。選手はメダルを目指して、たゆまない訓練を積み重ねます。皆そのように励んでも、金メダルを受けるのは一人だけです。そのことを例に用いて、信仰に於いても訓練と節制が必要だと述べています。自分の体を打ちたたいて服従させるのは、自分が失格者になってしまわないためだと。しかし、こう聞くとそんな大変なことをするのが信仰なら、とても出来ませんと言いたくなります。パウロは私たちに、何を伝えようとしているのでしょうか。
私たちには罪の性質があります。主を信じて罪赦されても、罪の傾向は残っているからです。それは坂道に例えられます。人生は坂道を上るようなものです。平坦な道を進むのではなく、傾斜のある道ですから、3歩進んでも2歩は後退します。何もしないでいると下がり続けます。信じて救われるには、何ら行いも業も不要です。あるがままで良いのです。恵みによって救われるからです。しかし、もしそれで満足し、何もしないならどうなるでしょうか。坂道を下り続けるようになります。罪の性質には、怠慢さが潜んでいるからです。それを知っているのでパウロは、自分の体を打ち叩いて服従させる、と言ったのです。毎日聖書を読み祈る、礼拝や集会を止めない、収入の十分の一を献げるなどが意味されています。
そのように信仰の訓練を勧めたのは、自分が失格者にならないためです。ボンヘッファーの言葉の引用。恵みには2種類あり、安価な恵みとは、悔い改め抜きの赦し、罪の告白抜きの聖餐、個人的な罪の告白抜きの赦罪。それは服従のない恵みであり,十字架のない恵み。心からの悔い改めも罪の告白も求めず、ただ信じていればそれで良いというのが安価な恵み。それは福音ではありません。それに対して「高価な恵み」とは、畑に隠された宝であり、それを見出した人は持っている物を全部、喜んで売ってしまう。神は御子の命を代価として私たちを贖ってくださいました。その愛と犠牲に応えるため、喜んで訓練と節制に励むことを体を打ち叩いて服従させます、と言ったのです。