わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。(Ⅰコリント9章19節)
宗教改革者ルターは、上記の聖句を手掛かりにして『キリスト者の自由』を書きました。最初に提示したのが以下の2つです。、
・キリスト者は何ものにも隷属させられない主人である。
・キリスト者はすべての人に隷属し仕える僕である。
この相反する2つの命題は、誰にも隷属しない自由をすべての人に仕える奴隷となることで、それを放棄すると述べています。できるだけ多くの人をキリストのものとして得るために、そうするとの決意です。そのためにユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように、弱い人には弱い人のようになったと言いました。そのことは前回、この花かご欄に記しました。
さてルターのことですが、当時の教会では、善行による救い、それも免罪符というお札を買えば罪から救われる、と教えていました。大変な間違いです。そもそもルターを苦しめていたのは、神に喜ばれる善い業を行えないことでした。それは、修道士としての修練を熱心に行えば行う程に、かえって罪の意識に悩まされていたのです。そこからの自由、言い換えれば律法からの自由は、福音にこそあるとの確信を示したのが本書です。それを述べるにあたって、2コリント4章16節から説明しました。キリスト者は霊的と肉体的との二重の本性から成り立ち、霊的な内なる人間=新しい人、肉体的な外なる人間=古い人とで構成されています。ルターはこの「内なる人間」を魂と呼び、魂に関わるのは「業」ではなく「信仰」なのだと説きます。この信仰は、魂が聞く聖書の御言葉を通して与えられます。信仰は神から与えられるものだからです。それゆえに、信仰は神の賜物であり、信仰者の内に働く神の働きの結果です。これを基に教会の三大原則である①救いは信仰のみ~行いには依らない②聖書のみ~人間的な組織や権威の言葉ではなく、ただ神の言葉に聴くことです。③万人祭司が提示されたのです。
当時の堕落腐敗した聖職者階級が権力を持って教会を支配していたことが背景にあります。ルターはパウロの言葉によって目が開かれ、魂が解放されました。そして、『キリスト者の自由』を執筆し、真の自由を説き明かしたのです。聖書の言葉には、歴史を変える力があることを教えられます。