そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストは死んでくださったのです。  (Ⅰコリント8章11節)

この章は、偶像に供えられた肉を食べることの是非が述べられています。今の私たちには身近ではありませんが、当時の諸教会では深刻な問題でした。その肉を食べる=偶像崇拝になるからです。弱い人とは信仰が弱い人のことで(ローマ14:1)、その肉を食べたら罪を犯すと考えていました。一方、強い人とはその反対で、偶像は本来存在しないものだから(8章4節)、それに供えられた肉を食べても罪にはならないと理解していました。パウロ自身は強い人として、何を食べても構わないとの知識がありました。肉を食べるか否かは信仰の本質問題ではないからです。それなのに、互いに相手を裁いていました。同じことは今もあります。

繊細さん(HSP)と呼ばれる人が増えました。病気でも発達障害でもなく、ちょっとしたことが気になり易い性格のことです。パウロが言う「弱い人」で、私もその一人ではないかと思っています。こういう人は、他の信仰者の言動に躓きやすいのです。今は肉ではなく、飲酒と喫煙(酒とたばこ)が問題です。私は大学生の時、教会の長老が礼拝の帰り道、懐からたばこを取り出して吸うのを見ました。キリスト者は禁酒禁煙と考えていたので、大変驚き躓(つまず)くところでした。しかし、それはアディアフォラ(信仰や救いにとって非本質的なこと=どちらでも良い)だと、後で知りました。

冒頭の聖句は、強い人に向かって語られています。強い人は、何を食べても構わないとの知識を与えられていました。その知識よりも大事なのは、愛です。良心や信仰の弱い人を思いやれる愛です。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(1節)からです。蔑んでいる弱い人のためにも、キリストは死んでくださったのです。「その人たちの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(12、13節)と、言い切っています。自由だから何でもして良いのではありません。むしろ、しない自由があります。強さも同じで、愛のゆえに強い力を振るわないところに真の自由があります。