わたしとしては、皆がわたしのように独り(独身)でいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。  (77節)

 使徒パウロは、Ⅰコリント7章で結婚について記しています。上記のように、独身であることを勧めています。では彼は元々独身だったのでしょうか。それとも、結婚したことがあったのでしょうか。ある注解者は、「あくまでも推測だが、パウロはかつて結婚したことがあった」と、述べています。その根拠は、彼が
①正統派のユダヤ教は結婚の義務を規定していたから。
②回心以前、サンヘドリン(ユダヤの最高法院)の一員で、それには既婚者であることが定められていたから。

では、どうして独りになったのか。パウロは妻と死別したのだろうか。いや、そうではなく彼がクリスチャンになったとき、ユダヤ教徒の妻は信仰上の違いなどから離れて行ったのに違いない。7章15節に、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい、とあるのは信仰上の違いによって生じた自分の体験から出ているとも読めます。妻は彼を捨てて出て行ったのでしょう。それ以後、彼は結婚生活ときっぱり縁を切り再婚を考えることはなく、むしろ独身であることを勧めています。それに家庭を持っていたら、あのように旅から旅への生活はできなかったに違いありません。

それから離婚に関しては、主イエスと同じく、離婚はいけないと述べています(11~13節)。結婚は、始祖アダムとエバが罪を犯す前に、神が定めたものだからです。イエスは、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マタイ19章6節)と言いました。とはいえ離婚は現実です。キリスト者であっても、離婚を避けられない場合があります。悲しいことです。たしかに結婚生活には難しい面があります。それを知っているパウロは、「結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです」と書いています(28節)。

さて、息子や娘を持つ親の立場になれば、独身ではなく結婚して欲しいと願います。子孫を絶やさないという面だけでなく、「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い」(コヘレト4章9節)からです。こうした現実問題は、昔も今も同じです。