そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。 (4章16節)

 最初ここを読んだ時、「このようにはとても書けない」と思いました。それは私だけではなく、多くの人が言います。私に倣いなさいなんてとても言えない、と。信仰的な生き方や立派な証しをしたいと願っていても、そこには及ばない毎日だからです。それよりもキリスト御自身を見て、倣ってくださいと言います。その通りですが、キリスト御自身を肉体の目で見る事はできないのです。私たちの周囲の人々はキリスト者を見て、キリスト教を判断します。キリスト者とは、キリストを信じているだけでなく、聖霊の内住によってキリストが宿っている者だからです。この手紙の著者パウロが、キリスト者と教会を激しく迫害していた時、天上のキリストは「サウロ、サウロなぜ、わたしを迫害するのか」と、語りかけました。この時、彼はキリスト者とイエス・キリストが一体であることを知ります。キリスト者の苦しみは、キリスト御自身の苦しみなのです。キリスト者=イエス・キリストだからです。冒頭の聖句は、わたし=キリストとなります。

フィリピ1章21節に、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」とあります。パウロにとって、生きるとはキリストを生きることなのです。言い換えますと、キリストが彼の中に生きて、働かれているのです。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2章20節)。キリスト者とキリストは一体だからです。それは、私たちにも全く同じなのです。

冒頭の聖句に続けて、「テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は…至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。」と書いています。更に、わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい(111節)とも。このようにはとても言えない私のような者でもキリスト者です、失敗や過ちばかり繰り返す愚かな私だから、キリストは一体となってくださるのです。でも、死を前にして「私にとって生きるとはキリスト、死は利益です」と、言い遺したいものです。