…いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もし、いただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。(4章7節) 

人から貰った物なのに、貰ってしまうと、まるで最初から自分の物だったように思ってしまうのは、どうしてでしょう。そして、人に分け与えるのを惜しんでしまう。それだけではありません。あたかも最初から自分のものだったように思いこんでいるのに気づきます。人からの物でもそうなら、ましてや、神から貰ったものに対しては、尚更です。

ここで、冒頭の聖句をご覧ください。これは自分に与えられた賜物や能力のことです。あるいは、空気や雨や太陽の光と言った自然の恵みもそうです。更には、神への信仰もそうなのです。すべてはいただいたもの、恵みなのに、自分が努力して獲得したもののように思い、誇ったり高ぶっていたのがコリントの人々でした。程度の差はあれ、私たちも同じではないでしょうか。

この聖句には恩寵(恵み)の教えが示されています。神がご自身を啓示してくれなかったら、誰も神を知ることは出来なかったでしょう。啓示には、一般啓示(自然界そのものが神を示す)と特別啓示(聖書とイエス・キリストによって神を示す)の2つがあります。私たちが神を類推するよりも、神がご自身を啓示して下さる方が間違いがありません。すべては神からいただくものです。私たちは自分を救うのではなく、神に救われるのです。自分が為したことと、神が私たちに為して下さったこととを併せ考えると、高ぶる思いは失せ、ただ謙虚な感謝の心が残ります。洗礼者ヨハネは言いました。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」(ヨハネ3章27節)と。またヤコブは「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」(1章17節)と書いています。その賜物こそ、主イエス・キリストであり、聖霊なのです。そして、すべては恵みです。

神は自然の恵みをただで与えて下さいます。つい当たり前に思ってしまいますが、有り難いことなのです。とりわけ信仰も恵みとして与えられたものです。キリストの十字架の死と復活によって、信仰は無代価で提供されたのです。なのに自分が努力して獲得したかのように思い、高ぶっているのです。しかし、本当は受けるに値しないのに、恵みとして与えられたものなのです。感謝は、当たり前の思いからは出て来ません。有り難い事と気づく心から出て来ます。