この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。 かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日 が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなもの であるかを吟味するからです。 (3章12,13節)
あなたがたは神の畑、神の建物なのです、とありました。建物である家を支えているのは土台です。信仰すなわちキリスト者という建物の土台はイエス・キリストです。その上に建てます。どんな家を建てるかはその人に任されています。「おのおの、どのように建てるかに注意すべきです」(10節)とあります。ただし、土台は主イエスだけです。信仰の拠り所は「信仰の創始者であり完成者であるイエス」だからです.建物の真価が問われるのは、大地震の時です。関東大震災や阪神大震災が襲った時でさえ、土台が強固な建物は倒壊しませんでした。その違いは、平時には分かりません。自らの上に大変なことが起きた時や死を目前にした時などには、信仰が大きく揺るがされます。そのような時、何を土台にしているかで、大きな違いが出て来ます。
冒頭の聖句には2種類の建て方が書かれています。金・銀・宝石が1つのまとまり、木・草・わらがもう1つです。前者は火に耐えられる材質で、後者は火に耐えられず燃えてしまいます。火とは何でしょうか。神の裁きです。かの日とは死の時であり、最後の審判の時です。それがいつ来るのか正確には誰も分かりませんが、必ず来ることは確かです。
帝国ホテルを建てる時、土台に長い時間と多くの費用がかけられました。その結果、1923年の関東大震災に遭遇しても、建物はビクともしませんでした。もっと手間と費用をかけずに建てることもできました。金銀宝石は長い時間と高い費用を、木草わらはすぐに建てられ、費用も安いことを表しています。誰もが求めるのは,労少なくして多くの成果を得ることです。しかし、パウロは「動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならない」(15章58節)と、言っています。もう一つは、たとえ家が焼けてしまっても、主を土台にしている故にその人は「火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われる」ことです。働きがどんなに少なくても、主を信じた人は最後の最後まで、その信仰と命が堅持されるのです。それが主のお約束です。