わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。 (3章9節)

この聖句は、ある姉妹が集会の予定表に、その月の聖句として選ばれたものでした。それを見て、強い印象を受けました。軽く読み過ごしていた聖句だから。今から5年以上前の、茅ケ崎集会でのことです。

畑は人が土を耕し、そこに種を蒔き、水を注いで作物を育てる場。それに例えて次のように述べます。
アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この2人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です(3章5,6節)。

強調点は、成長させてくださる神にあります。それなのに、パウロやアポロに力点を置いていたのです。キリスト者は神の畑です。種を蒔く人、水を注ぐ人は必要です。しかし、成長は神から来ます。教え導く人は仕える者です。そこを取り違えやすいのです。信じる者は「神の」畑です。最終的な責任は神が取られ、神が所有する畑なのです。この意識を持ちたい。

更に、神の建物なのです。続く10~15節に繋がります。建物は建築工事で建てられます。大工や左官など様々の人が携わります。パウロは「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています」(10節)と記しました。その土台とは、イエス・キリストです(11節)。建物を支えているのは、目には見えない土台です。土台を人間に置いていたのがコリントの教会で、パウロ、アポロ、ケファ等、有能な指導者の上に信仰を建てていたのです。教派が生まれる背景にも同じ傾向が見られます。私たち同信会はブランド兄から始まっていますが、決してブランド派ではありません。彼は種を蒔き、多くの先輩らが水を注いだのです。しかし、育てたのは神です。そして信仰の土台はイエス・キリストだけです。

農夫を指図する神は、彼に正しく教えられる(イザヤ28章26節)。どこに、どのように種を蒔くべきか、その後、どうすべきか農夫を正しく教え導くのは神です。神の畑である私たちも、その神に正しく教え導かれて実を結びたい。