わたしは、あなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。 (Ⅰコリント2章2節)
上記の聖句で見落としてはいけないのが、あなたがたの間で=コリントの教会ではということ。コリント教会は有能な人間の上に寄りかかっていたからです。そこで人気があったのは、この世の知恵で色付けされた話でした。哲学や学識をひけらかす衒学的な話に対して、パウロはより単純に「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト」を語ろうと決心しました。現代の教会に於いても「説教が難しい」との批判があります。その意味では、いつの時代にもコリントと同じ問題があると言えます。
私たちが知るべきことは、イエス・キリストです。しかも十字架のキリストを知る以上に重要なことは、何もないと言っているのです。それが使徒パウロの確信であり、彼の信仰の中心でした。ここを読む度に、私は襟を正させられます。福音の本質は十字架と復活にあるからです。勿論、十字架以外の事は何も語らないというのではありません。色々な問題が起きたり、集会内に分裂が生じるのは福音の本質から外れる時です。その意味でも、礼拝に於いて、どのような御言葉が語られているかは吟味される必要があります。
イグナチオ・ロヨラが『霊操』に於いて勧めたのが十字架につけられたキリストを目前に想像しながら主と対話をすることでした。「キリストが創造主でありながら人間となられ、永遠の命でありながら死を味わわれ、私の罪のために十字架で死なれたこと、それに対して私はキリストのために何をしてきたのかを思い巡らし、このような姿でおられるキリストを見て、心に浮かんでくるものを一つ一つ言い表すこと」、と。冒頭の聖句を読むと必ず思い浮かぶのが、前述したロヨラの勧めです。更に思い浮かぶのが礼拝讃美歌355番です。作者は十字架にかかっているイエス・キリストの絵を見、そこにラテン語で「私はあなたのために命を捨てた。あなたは、私のために何をしましたか」と書いてあったのに感銘を受け、その場で作詞したと言われています。汲めども決して尽きない泉、それがイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストです。この原点に、いつも立ち帰る者でありたい。