このキリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と 贖いとなられたのです。 (Ⅰコリント1章30節)
ここを解釈したルターの言葉が、心に残りました。彼は「この聖句は、私たちとキリストとの交換が意味されている」と読みました。すなわち、神の知恵であるキリストが私の知恵となり、神の義であるキリストが私の義となる、聖も贖いも同じだと。キリストは「私はあなたの義となった」と言われ、それに対して「主よ、あなたは私の罪です」と応答する。「私はあなたの聖となった」と言われ、「主よ、あなたは私の汚れとなってくださった」と応答する。「私はあなたの贖いとなった」と言われ、それに対し「主よ、あなたは私の滅びを身代わって下さった」と応答します。
主イエスが十字架上で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)と、大声で叫ばれたのは、私たちの滅びを身代わって、その身に負われたからです。だから、主が見捨てられたあの叫びは、信じるあなたが決して見捨てられない確かなしるしなのです。そのように理解して十字架のキリストを仰ぐのです。
以上のことを言い換えて、義の転嫁と呼ばれます。キリスト・イエスにおいて我々に義が転嫁されるのです。キリストを信じるなら、霊が新たに生まれ、この転嫁が起きるのです。神の義であるキリストによってその義が私たちに転嫁されるのです。私たちは不義を犯す罪人だから義とは呼べないし、汚れの多い者だから聖ではない、贖いもなく滅びる者です。それだからキリストが人となられ、信じる者の上にご自身を転嫁して、私たちと交換されたのです。それが冒頭の聖句です。私とキリストは、信仰によって入れ替わるのです。それだから、十字架の言葉は神の力なのです。
コリント教会には、人間的に見て知恵ある者が多くはなく、むしろ世の無学な者、世の無力な者など、無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者が集っていました。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。それゆえ自らを無とし遜(へりくだ)る者には、神の知恵であり、神の義・聖・贖いであるキリストが与えられるのです。その事がキリストとの交換・転嫁と表現されているのです。