十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなもので すが、わたしたち救われる者には神の力です。(Ⅰコリント1章18節)

パウロにとって十字架は極悪人を処刑する手段で、忌むべきものでしかなかった。そこに架けられたキリストは呪われた者。だからキリスト者を徹底的に迫害できたのです。ところが、復活のキリストと出会って彼は全く変えられました。そして、次のように述べました。キリストは、わたしたちのために呪いとなってわたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです(ガラテヤ3章13節)。キリストの十字架は、本来なら私たちが受けるべきであった律法の呪いを、キリストが代わりに受けてくださったもの。罪人であるわたしたちのために、自らが呪われる者となって十字架上で死なれたのです。それを解き明かしたのが、十字架の言葉です。贖い=代価を払って買い取ること。その原理は、命には命で支払う。それがキリストの十字架の意味です。そこにあるのは、命を捨てる程の愛です。それに値するからではなく、まったく値しない罪人のために、神の子キリストが身代わりとなって死なれた、それが十字架です。その意味に目が開かれたパウロは、冒頭の聖句を記したのです。愛こそが人を生かし、力を与えます。十字架は神の力、力の原語はダイナマイトの語源で、物凄い力です。キリストの愛は、ダイナマイトの力を持つ愛なのです。更に続けて、ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人は愚かなものですがと記す(22、23節)。

キリストの十字架を思い、その十字架の言葉が神の力なのは、罪人のために命を捨てられたキリストの愛に心が燃やされて、生きる力が湧いてくるからです。その十字架の意味、身代わりの贖いとなられたキリストの十字架の意味に、目が開かれたのはいつですか?多くの問題を抱えたコリントの信徒たちはこの世の知恵を十字架の言葉よりも優先していました。ユダヤ人をつまずかせるからと、十字架につけられたキリストを語るのを避けて、この世で高く評価される知恵の言葉や学識を語っていたことが分かります。そこから、今の私たちはどうなのかが問われてくるのです。