あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたし はアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。 (Ⅰコリント1章12,13節)
コリント教会には幾つかの問題がありました。パウロはクロエの家の人たちから、それを知らされます。その一つが内部分裂です。冒頭の聖句のように、パウロ派、アポロ派、ケファ(ペトロ)派、そしてキリスト派に分かれて、互いに批判し合っていました。それに対して、頭ごなしに注意したり叱ったりしたでしょうか?そうではなく、一致を勧めるのに親しみを込め「兄弟たち」と2回、呼びかけています。そして、1~9節までに9回も「イエス・キリスト」の名が繰り返されています。イエス・キリストに在って互いに兄弟姉妹であるのだから、分裂し争ってはいけないことを示す意図が感じられます。いかに細かな注意を払って、手紙を書いているかが分かります。
秋川キリスト集会の有馬兄はICU高等学校の教師をしていた時、よく生徒から「先生はカトリックですかそれともプロテスタントなんですか?」と聞かれたとのこと。それに対して「僕はカトリックでもプロテスタントでもなく、ただのクリスチャンだよ」と答えました。その返答に、生徒の反応は「ええ、何それ?」だったとのこと。そもそも私たちの多くは、そこが正しい教派だから行ったのではなく、信じた後で、そこが**派だったのだと知ったのです。しかし、教団側はかなり教派的で、信徒にもそれを求めてきます、と「集会だより」に書かれています。成程と思いました。
私たちキリスト同信会も、教派には属さない主義があります。教派を離れてキリストの御名に集められるからです。しかし、それゆえ自分たちだけが正しいと考えるなら、恐らく、冒頭の聖句の「わたしはキリストに」と言うのと同じになります。カトリック教会内部には、フランシスコ会、イエズス会、ドミニコ会等分かれがありますが、違いを超えて同じカトリック教会です。ところがプロテスタントでは違いがあると教派になっています。洗礼の形式、教会政治の在り方などで分裂しています。そうした現状を見たら、パウロは冒頭の聖句のように、キリストは幾つにも分けられたのですか、と訴えるに違いないと思われます。