神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ・・・。(Ⅰコリント1章1、2節)
新約聖書は4つの福音書と歴史書(使徒言行録)と21通の手紙と預言の書である黙示録の4部から構成されています。これは旧約聖書が、5つの律法の書と歴史書(ヨシュア~エステル記)、ヨブ記~雅歌(これが上記の手紙に匹敵)、イザヤ~マラキ書が預言書の4部と同じ構成になっています。
21通の手紙は使徒パウロが書いたものから始まっています。その筆頭がローマ書です。それに続くのがコリント書です。ローマ書は神学書のような内容ですが、コリント書は問題のあるコリント教会への具体的な教示が内容になっています。驚かされるのはローマ書がテルティオへの口述筆記だということです(16章22節)。推敲しながら、自らの手で書き上げた論文とは違っていることです。そしてコリント書は、パウロのもとに寄せられた疑問や訴えをもとに書かれていることです。そうした違いはあっても、新しい律法である福音を伝えています。そうしたことを踏まえて、コリント教会への手紙を読んでいきます。
冒頭の聖句がこの手紙の書き出しです。書いた人の自己紹介と、受け取る相手への言葉です。パウロは自分の事を「召されて」と書いています。名を呼ばれ、召されて使徒とされ、コリント教会へ遣わされた者ですと記しています。使徒とは「遣わされた者」という意味です。いろいろ問題があったとしても、「神の」教会です。すなわち、至る所で私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているからです。これは礼拝のことです。キリストの御名の下に集められるのが教会だからです。今の私たちの目にも、コリント教会はとんでもない集まり(内部分裂、近親相姦者の放置他)に思えます。それでも神の教会であり、主キリストの御名を呼び求める礼拝がなされています。だから、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストはこの人たちとわたしたちの主であります。(1章2節)と、コリント教会の兄姉のことを記しているのです。キリスト者も召され、聖別された者です。聖=区別された者を意味します。中身も清らかである、と言うのではありません。決まりきった挨拶文ではないことに気付かされます。