イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」 (ヨハネ14章6節)
高村光太郎の詩『道程』は、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る ああ、自然よ 父よ…」と書き出されています。元来は102行もある長い詩で、その最後の9行を切り取ったもの。自堕落な生き方の中で「やくざに見えた道の中から、生命の意味をはっきりと見せてくれたのは自然だ、これこそ厳格な父の愛だ」その愛に支えられて、この道程を歩いて行こうと歌った詩です。学校の教科書で習ったこの詩が思い出されたのは、祈りが道だからです。その道は、主イエス御自身です。冒頭の聖句にある通りです。
これが真理の道だ、と指さす人は多くいます。しかし、私が道だ、と言った人はいません。光太郎が呼びかけた父は、厳格で雄大な自然そのものですが、その自然を創造された神です。その神に至る道であり、真理であり、命そのものであるのが主イエスです。この道を通らなければ、神には至れないのです。その道は、命を賭して開かれました。「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生ける道をわたしたちのために開いてくださったのです」(ヘブライ10章20節)。断絶していた神と人間との間に、生ける道を切り開いてくださったのです。両方から行き来できるようになりました。それは族長ヤコブが石を枕に眠った夜の夢「地上から天に通じる階段があり、そこを神の天使らが上り下りしている」に通じます。この階段こそイエス様です。私たちの祈りは主イエスを通して神へと上り、神から天使が遣わされて祝福が降ります。これは驚くべき偉大なこと(ヨハネ1章50節)です。このことを実感できるようになると、祈りが変わります。私たちの祈りの言葉は、主イエスを通して天へと上って行きます。祈る度、このことを覚え、既に敷かれている祈りの道である主イエスに感謝します。
「すべての道はローマに通じる」と言われたアッピア街道は、世界最古の道として造られました。人や物資をより多く、より迅速に運ぶため、どこまでも真っ直ぐに延びる直線道路です。私たちの祈りの道も、神へと通じる真っ直ぐな道でありたいもの。僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる。そこに主が居られる。