絶えず祈りなさい。(Ⅰテサロニケ5章17節)

健康な時には殆ど意識しませんが、心臓は絶えず鼓動しています。また、呼吸も絶えずなされています。当たり前に思っていますが、いのちは絶えず活動しています。私たちが眠っているときにも、内臓は絶えず働いているのです。休暇はありません。神の働きもそれと同じで、不眠不休です。見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない(詩121編4節)。そのことを思うと、絶えず祈ることは無理な要求ではありません。絶えず祈るとは、絶えず神を思うことでもあるからです。恋する者は、絶えず相手のことを思っています。私たちは神をそのように絶えず思ってはいないかも知れません。日常生活では、神のことを忘れていることが多いでしょう。しかし、神はそうではありません。まどろむことなく、眠ることもない24時間体制で、あなたを見守ってくださっています。親が幼子のことを絶えず見守っている以上に、です。先行きの不安や心配に、私たちは絶えずさらされています。信仰者には偉大な神に「絶えず」守られ、支えられているとの安心感が与えられています。何と幸いでしょう。だから、そうしたことへの応答として「絶えず祈る」のです。絶えずとは、特別な時だけではないという事です。祈りが呼吸だと言われるのは、そのためです。

射祷:短い言葉を繰り返して祈ることで、道を歩きながら「主イエスさま、感謝します」と繰り返します。「イエス・キリスト、わが救い主」と繰り返します。

瞬間の祈り:何か起きた時、すぐ神に向かい祈ります。浅田正吉兄は関東大震災に遭遇した、その瞬間に「主よ!憐れみ給え」と祈りました。

ボンヘッファーの最期は、ナチスによる処刑でした。収容所の医師は、彼が処刑される直前、神にゆだね切って祈り続けていたと証言しました。彼は常日頃していたように、聖書を読み・祈っていたのです。聖書と祈り、それが彼の命の糧でした。それを知った時深い感銘を覚えました。私もそのようでありたい、と願いました。まさに、祈りは道です。生きざまです。ひまわりの花は、絶えず太陽に向かいます。漢字は、向日葵。私たちも、義の太陽である主イエス様に絶えず向かう祈り人でありたい。眠る前、心臓や肺など内臓の上に手を置き「有り難う」の祈りを忘れまい。