エリシャがイスラエルの王に、「弓を手にしなさい」と言うので、彼が弓を手にすると、エリシャは自分の手を王の手の上にのせて……。(列王下13章16節)
罪には「的外れ」の意味があります。本来居るべき所に居ない状態です。それを弓矢の例で述べています。旧約聖書に3箇所、出ています。①詩編78編57節
先祖と同じように背き、裏切り 欺く弓で射た矢のようにそれて行き…。たるんだ弓、狂った弓とも訳されます。そんな弓では的を狙っても、的からそれて行きます。どうすれば的を射ることができるのでしょうか。弓を正しい状態に戻すことです。弓は、その人自身のこと。神との正しい関係に戻るとき、弓は正確に矢を放ちます。その上で、次の段階に進みます。
②預言者エリシャは、イスラエルの王ヨアシュが弓を引く手に自分の手をのせます。丁度、弓を引く生徒の手に先生が手を置いて、一緒に弓弦を引き絞るのと同じです。エリシャは東側の窓を開けさせ、王に矢を射させ、「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢・・」と言います。王一人では、矢を的に的中させることはできません。だから、エリシャは背後から助け、一緒に矢を射たのです。私たちの背後にキリストが立って、人生の舵(かじ)を一緒に動かしてくださいます。その時、勝利の矢を放つことができます。
③何気なく射た矢が悪王に命中したこと。列王上22章34節:ところが一人の兵が何気なく弓を引き、イスラエルの王の鎧の胸当てと草摺りの間を射貫いた。鎧(よろい)と草摺りの間には、殆ど隙間がありませんから、狙ってもそこに命中させることは非常に難しい。しかし、神には出来ます。1人の兵士が作為を持って狙ったのでもない弓矢が、驚くべき正確さで悪王を射貫きました。神の裁きから逃れることは、できないのです。
以上、3つの弓矢の例を挙げました。教えられることは、まず神を畏れ敬うこと。次に、自分が歪んだ弓であること、的外れな生き方をしてきた罪人であることを認めることです。その上で、主イエスに手を添えてもらって矢を射る(的を射抜く)のです。エリシャはキリストの型です。祈りは矢を射ることです。敵である悪魔を倒す矢を射ることができます。何気なく放つ即ち、作為や自分の力だけに頼るのを放棄し、神に委ねることです。そのような祈りには、大きな力が働くのです。的外れの祈りは、もう卒業したいものです。