パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。(使徒20章36節)
わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。(エフェソ3章14節)
ものごとは順序として「形」から入ります。祈りもそうです。祈る姿勢はどんな形でも良いのですが、ひざまずいて祈るのが一番です。冒頭の聖句が、そのことを示しています。旧約聖書にも、ひざまずいて祈ることが記されています。ダニエルは、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度祈りと賛美を献げるのが習慣でした(ダニエル6章11節)。ひざまずく形が、祈りにはふさわしいのでしょう。
カトリック教会には礼拝堂の座席に、ひざまずける板があります。実際その上で、ひざまずいて祈ったことがあります。これは良いな、と思いました。しかし、多くの教会では、そうした姿勢で祈る体制は出来ていません。ですから、意識的に「ひざまずく」ようにしない限り、ひざまずいて祈ることはないように思います。祈りは、形に捉われる必要がないからです。しかし、私たちは信仰の弱い者、祈ることの少ない者ですから、形を大切にしても良いと思います。ひざまずいて祈ってみましょう。いつもとは違う変化に気づくはずです。冒頭の聖句から、使徒パウロがエフェソ教会の兄姉らと別れる前に、皆と一緒にひざまずいて祈っている姿が思い浮かびます。自然にそうした姿勢で祈ったのでしょう。あるいは、祈る時はいつも「ひざまずいて」いたのかも知れません。その下の聖句は、パウロの手紙の一節です。ひざまずく=身を低くする姿勢です。形は形式になりがちですが、それでも形を大切にしたいものです。
イスラムの祈りは、聖地メッカの方に向かってひざまずき、頭を地面につけるまで最敬礼を繰り返します。そうした姿を、テレビの映像で見ます。形です。日に5度、そうした姿勢で祈るよう指導されています。私たちも形から入ることの大切さを、再確認したいものです。主イエスは、祈る時には奥まった部屋に行き、戸を閉じて祈れと教えました。精神を集中して祈るためです。とかく雑念が湧き、目に見えない神がますます見えなくなります。そうすると、人を意識した祈りになりがちです。密室に退いて祈るのは、全神経を集中して祈りに没入するためです。そうしてこそ隠れた所におられる神との対話が深まるのです。