この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。(使徒9章2節)
イエスを救い主と信じるキリスト者を、人々は「この道の者」と呼んでいました。パウロも「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ…」と言いました(使徒22章4節)。キリスト教信者とは言わず、この道の者と言われていたのです。キリスト信仰は道なんですね。それは、主イエスが「わたしは道であり、真理であり、命である」と、言われたのと繋がっています。断絶している神と人とを結ぶ、唯一の道がイエス・キリストだからです。旧約に記されている「道」が次の聖句です。
主よ、aあなたの道をわたしに示し、
あなたにb従う道を教えてください。(詩編25編4節)
aは大路で、bは小道です。a神の大きな御心全般を指し、bは細々とした私たちの選択肢を指しています。私たちはbの小道で迷ったり、どう進むべきか悩んだりします。そこで、詩25編8,9節が来ます。
主は恵み深く正しくいまし
罪人に道を示してくださいます。
裁きをして貧しい人を導き
主の道を貧しい人に教えてくださいます。
祈りによって、主の道が教え示されます。その道を進めば良いのです。道はその上を歩くもの、即ち、生き方です。その人の人格と関係しています。
さて、この世にも道(どうと読みます)と呼ばれるものがいろいろあります。茶道・書道・柔道・剣道…。単なる技術ではなく、生き方だから、~道と呼ばれます。初心者から上達者(師範)まで段階があります。作法という技術から学びますが、単なるテクニックではないのです。弓道を極めた阿波研造師範から学んだオイゲン・ヘリゲル。彼は自分の力で射るのではない、もっと大きな「それが射る」極意を体得しようとします(『日本の弓術』岩波文庫)。阿波の放った最初の矢は暗闇の中でも的を射抜き、続けて放った矢は最初の矢の筈に当たって2つに裂いたのです。それを見たヘリゲルは驚嘆します。実に祈りは、そうした弓道に似ています。的を外さず祈りの矢を射る、力ある祈りがそれです。そのような祈りを生きられたのが、主イエス・キリストです。だから、弟子たちは主イエスに「祈りを教えてください」と、強く願ったのです。