群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。  (マタイ21章46節)

イエス・キリストには預言者・祭司・王という3つの職制があります。今回、預言者であったことに注目します。冒頭聖句を見てください。私たちは主イエスを救い主なる神として信じていますが、イエス在世当時は偉大な預言者と噂されていたのです。主イエスが弟子たちに、「人々は私のことを何者だと言っているか」と尋ねると、「洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、エレミヤだ、預言者の一人だと言っています」と答えています(マタイ16:10~14)。名を上げられたのは皆、預言者ばかりでした。去り行くモーセがイスラエルの民に語った言葉、「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」(申命記18章15節)は子々孫々まで語り伝えられました。そして、モーセのように主と顔と顔を合わせて語れる預言者を待ち望みました。だから、主イエスが現れた時、この方があの預言者かも知れないと人々は思ったのです。主イエスが山上の説教をされたのは、モーセがシナイ山で律法を受け取ったのに合わせています。新しい律法である福音を、そこで語りました。

さて、聖書では預言者と書き、予言者とは書きませんが、将来や未来のことを預言する働きも預言者にはあります。預言と予言の関係について示すのが、サムエル上9章9節の「先見者」です。予見者との訳もあります。昔、イスラエルでは神託を求めに行くとき、先見者のところへ行くと言った。今日の預言者を先見者と呼んでいた。サムエルは、いなくなったろばを探すサウルに「わたしが先見者です」と言い、サウルの身に起こることを予言します。まるで占い師のような語り口をしていますが、その通りになります。先のことを見る者が先見者であり、預言者でした。預言者アモスも先見者と呼ばれています(アモス7:12)。主イエスは預言者として、やがて起こるであろう出来事、特に審判としての災厄について語っています。私たちには見えない先の事が見えたのです。それはこれまで読んできた旧約の預言者たちも同じでした。主イエスがオリーブ山から都エルサレムを見た時、涙を流されたのは(ルカ19:41-44)、40年後に都エルサレムがローマ軍によって陥落することを既に見ていたからです。