そのとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。     (エゼキエル6章7節)

上の聖句は、エゼキエル書に61回繰り返されていますが、7節から始まります。6章だけでも4回も繰り返されています。その都度、神の働きを覚えさせられるのです。ああ、本当に神が働かれている、と実感するのです。神の裁きは、裁くこと自体が目的ではなく、神に立ち帰って(悔い改めて)救いに到らせるのが目的です。目の前に生起する色々な出来事によって神が主であることを知るのです。そのときとは、祭壇が廃墟とされ、偶像が粉々に砕かれる「そのとき」です。神の裁きが行われる時で、バビロン軍に殺された者が民の真ん中に倒されます。そして、捕囚とされる悲惨さの中で、初めて我に返り、主を思い出します。
お前たちは剣に撃たれて倒れる。わたしはイスラエルの国境でお前たちを裁く。そのとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる(1110節)。

私たちも同じで、どうしようもない状態に追い込まれた時には、神に助けを叫ぶ「苦しい時の神頼み」になります。反対に、物事が順調な時には神を忘れて、自分に頼っています。まことに身勝手なものです。その典型が、ルカ15章の「放蕩息子のたとえ」です。彼が神である父を思い出したのは、飢え死に寸前まで追い込まれた時です。その時、彼は我に返ったのです。そして、父の許に帰ろうと考えたのです。でも、逡巡し、躊躇しながら帰り始めます。そんな息子を見つけて、憐れに思い、父は走り寄って首を抱きます。その時、彼は父なる神の愛を知ります。つまり最初は、裁きよって困窮し自己嫌悪する中で、我に返って主を知ります。その後は、無条件で愛され、受け入れられて主を知ります。それと同じ構造が、エゼキエル書にも見られます。エゼキエル書の前半は厳しい裁きの預言が続き、そのとき、神が主であること知ります。その後に記される33章以降には、裁きではなく祝福を通して、神こそが主であることを知ると預言されています。本当にそうなっているかどうか、エゼキエル書を開いてみてください。

私は20歳の時、神の裁きは侮れないことを知らされる辛い経験しました。そのことを通して、神が主であることを痛感させられ、忘れることができません。しかしそれで終わらず、その後の溢れる祝福を通しても、神はご自身が主であると示されました。
神の裁きは、裁きで終わらず、祝福に到る過程であり、手段なのです。それを、旧約のエゼキエル書に見出しました。