主よ、あなたがわたしを惑わし
 わたしは惑わされて あなたに捕えられました。
 あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ
人が皆、私を嘲ります。 (エレミヤ20章7節)

エレミヤ書には、上記の聖句のような嘆き(エレミヤの告白録と呼ばれる)箇所があります。神に向けて語られた訴えです。エレミヤは弱音を吐いたのです。対照的なのが預言者エゼキエルです。彼は愛する妻を神によって、突然奪われますが(エゼキエル24章16節)彼は嘆いたり、泣くことを禁じられます。翌朝には淡々と捕囚民に語り、どうしてと疑問を抱かせます。自分の行動を通して預言したことが分かります。

前回、エレミヤは生涯にわたって、自分の語った言葉が神からのものなのかと疑われた預言者だった、と記しました。時代に逆行する預言を語ったからですがそのような任務は耐え難いものです。だから、冒頭の聖句のような嘆きが口から出たのです。彼はエレミヤ8章23節他から、涙の預言者と呼ばれます。わたしの目が涙の源となればよいのに。そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう、娘なるわが民の倒れた者のために。自分の言葉を信じず、エジプトへ下ろうとした残留民たちに、言う通りにしないのなら勝手にしろ!と見放したりせず、エレミヤは一緒にエジプトに行きます。決して見捨てませんでした。逃亡先のエジプトで彼の生涯は終わるのですが、その最期については何も記されていません。敢えて書かれていないと読めます。

主イエスはある場所で弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねています。弟子たちは色々な人物の名前を挙げます。そこにエレミヤの名も出て来ます(マタイ16章14節)。エレミヤのどこが主イエスを彷彿させたのでしょうか。イエスはエレサレムの滅びを予見して泣きました(ルカ19章41節)。自分を裏切り、見捨てた弟子たちのために祈り、そのような者たちを愛しました。自らは見捨てられても、ご自分は決して弟子たちを見捨てませんでした。そこがエレミヤと共通していると思えます。

私は大学時代にエレミヤに惹かれ、エゼキエル書と対比しながら読みました。それから長い時が過ぎましたが、戦争が止まない今の時代にこそ、時流に逆らい命懸けて語ったエレミヤの書を再読したいものです。