見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、
と主は言われる。 (エレミヤ31章31節)
聖書は契約の書です。冒頭の聖句は、モーセから約千年後のエレミヤの言葉です。旧い契約から新しい契約の時代(新約時代)が来ることを預言しています。旧い契約は律法が中心で、新しい契約は福音が中心です。しかし、旧約にも福音が示されているのです。
契約には、行いの契約と恵みの契約の2つがあり、行いの契約の典型が十戒とそれに付随する律法です。人間の行いに重点が置かれ、祝福と呪いの条件付きです。それが旧約聖書の主流にあります。モーセ律法はレビ記26章、申命記28章に祝福と呪いの具体的な内容が列記されています。それに対して恵みの契約は人間の行いではなく、神の恵みに重点が置かれています。それは無条件の契約です。それがアブラハムとの契約に見られます。創世記12章1~3節に示されているのは、アブラハムの行いに応じて祝福が与えられたり呪われたりすることではありません。彼は最初から祝福され、祝福の源とされています。彼が愚かな行動をして過ちを犯したとしても、恵みが取り去られることはありません。これはダビデに受け継がれています。それを示すのがサムエル下7章です。旧約の中にも、こうした福音が恵みの契約として記されています。それが地下水脈となって、主イエスに於いて新しい契約として結ばれたと言えます。エレミヤは、モーセ律法とは異なるを新しい契約を預言した冒頭の聖句に続けこの契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。決して破られることのない契約、それが恵みの契約です。新約聖書の冒頭マタイ1章1節:アブラハムの子ダビデの子イエス・キリストの系図。これが福音である新しい契約の流れですが、新しい契約と明記されるのは,ルカ22章20節です。この杯はあなたがたのために流される新しい契約である。罪のないキリストの血が流されることによって、行いではなく信仰によって救われる「新しい契約」が結ばれたのです。神の側の一方的な恵みによって救われるのが、新しい契約です。求められるのはキリストへの信仰のみです。その信仰も、恵みとして無条件で与えられるのです。