彼らの苦難を常に御自分の苦難とし
   御前に仕える御使いによって彼らを救い
 愛と憐みをもって彼らを贖い
 昔から常に 彼らを負い、
 彼らを担ってくださった。(イザヤ63章9節)

  この世には戦争や貧困、病気や事故などから来る多くの苦しみがあります。今も、毎日のようにそうした辛い現実を見聞きします。神が愛ならどうして?との声を耳にします。預言者イザヤの時代も同じでした。しかし、真の原因は神の愛の不足ではなく、私たち人間の罪にあります。政治の問題、社会の問題の根底にあるのが、罪です。罪とそれに起因する堕落した人間性にあります。それをイザヤは、前半の1~39章で糾弾しました。そして後半の40~66章で、救い主による罪の解決を預言しています。救い主(メシア)は苦難の僕として、私たちの罪の身代わりとなられることが53章に記されています。前回、そのことを記しました。それに続くのが、冒頭の聖句です。ここを読むと、胸が熱くなります。民は自らの罪と過ちによって前述の苦難にあえぎます。そんな時、愛と憐みをもって神自らが、犠牲の死という代価を支払い贖われるのです。これは驚くべき愛です。恐らくイザヤは信じられない思いで、ここを書いたに違いありません。
冒頭聖句:代わりに苦しむ代苦と、共に苦しむ共苦としての神が示されていますが、旧約聖書の神は憐れみ深くはあっても、民の身代わりに死ぬことは有り得ないのです。モーセ律法は、そのような神を示していません。ですからイザヤが指し示したのは、人であり神でもあるイエス・キリストです。永遠の神が有限の人間となられ、不死である神が贖いの死を遂げられるからです。ここに、旧約を超えて新約へと移る預言者たちの福音があります。イザヤを筆頭とする記述預言者たちは皆、十字架のキリストを預言しています。
選ばれた民が行えなかったこと、即ち、神の律法を完全に順守することを、民に代わって成し遂げたのがイエス・キリストだからです。そして、この世に苦しみ悩む者がいる限り、キリストは今も共に十字架を負われています。私たちの痛みと苦難を御自分の苦難として下さるからです。倒れる者を抱え、昔から常に負い、担ってくださっているのです。それだけでなく、死を打ち破って復活され、今も生きておられます。