主はこの山で すべての民の顔を包んでいた布と
すべての国を覆っていた布を滅ぼし
死を永久に滅ぼしてくださる。
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、ご自分の
民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。これは主
が語られたことである。(イザヤ25章7、8節)

 死者の復活について、旧約聖書は殆ど述べていません。死ねば人は皆、陰府に降ると信じられていたからです。天国という概念はありませんでした。この世がすべてでした。だから、神の祝福=現世利益でした。そのような旧約聖書に於いて、復活を暗示しているのが冒頭の聖句です。イザヤはその意味でも偉大な預言者でした。ここでイザヤが述べているのは、Ⅱコリント3章13~16節と同じことで、福音の光を覆っている布を取り除くことです。古い契約ではなく新しい契約への移行を預言しています。その中心に主イエスの十字架と復活があります。すべての人を支配していた死が滅ぼされ、死に勝利する復活が預言されています。もっと直接的な預言が、次の26章19節です。

 あなたの死者が命を得、
 わたしのしかばねが立ち上がりますように。
 塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。
 あなたの送られる露は光の露。
 あなたは死霊の地にそれを降らせられます。(イザヤ26章19節)

預言書の中で復活を語ったのがイザヤだったのは、偶然ではありません。主イエスの受難と十字架の死を見事に預言したのもイザヤでした。53章がそれです。
受難週は8日(土)に終わりましたが、それは惨めな敗北ではなく勝利でした。復活に於いて死に勝利されたのは確かですが、既に十字架に於いて罪と死に勝利されていました。十字架に於いて犠牲となりたもうたがゆえに、勝利者となられたのです。イザヤ53章は、そのことを示しています。十字架の言葉は…神の力です(Ⅰコリント1章18節)とあり、復活の言葉は…神の力です、とは言われていません。十字架に於いて神の力が現れ、神の勝利が現れ、その輝かしい現れが復活なのです。十字架では敗北したけれど、復活によって勝利したのではありません。イザヤの預言からもそれが読み取れます。神の「力」の原語はダイナマイトに通じます。物凄い力ですが、普段は潜められています。それが復活のキリストと出会うことによって、命の力が爆発するのです。それがイースターの喜びです。