主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺された者の上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。 (エゼキエル37章9節)
イスラエル研修旅行の最後、ナチスによるユダヤ人虐殺記念館を訪ねた時に受けた強い感銘が思い出されます。そこに入場した時には気づきませんでしたが、記念館を出て上を見上げると、横断幕のように「エゼキエル37章9節」と書かれていました。それが上記の聖句です。600万人と言われる驚くべき数のユダヤ人が、無残にも殺されました。2度と同じことが繰り返されてはならないとの思いを込めて、虐殺の事実を残したのです。しかし、それに留まらないことが、冒頭の聖句から分かります。「霊よ、これらの殺された者の上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る」と、あるからです。殺されたままで終わらない。聖霊を受けることによって、生き返るのです。個人のことよりも、ユダヤ民族全体がそうなるとの預言です。それがエゼキエル37章です。そこを開きます。
聖書の民が誇りにしてきたのはエルサレム神殿と、約束の地イスラエルでした。ところが、神殿は破壊され、異教の地バビロンへと強制連行されてしまった。それは、信仰の拠り所を失ってしまったのと同じで、霊的な死を意味しました。エゼキエルが見せられた無数の骨、それも枯れ果てた骨はユダヤ民族の霊的な姿でした。主はエゼキエルに問いかけます、「これらの骨は生き返ることができるか」と。彼は「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えます。エゼキエルがすべきことは、枯れた骨に預言することでした。そうすると、カタカタと音を立てて骨と骨が組み合わされ、その上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆ったのです。霊に預言し、聖霊が枯れた骨の中に入ると、彼らは生き返って自分の足で立ったのです。枯れた骨同然のユダヤ人を、再び生き返らせたのは聖霊でした。絶望しかなかった捕虜収容所で、多くのユダヤ人を支えたのが信仰でした。絶滅を免れるだけでなく、生き返るとの信仰でした。それを冒頭の聖句を見たあの時、私は肌で感じました。奇跡、それはユダヤ民族です。そして、聖書の民である私たちも、死の陰の谷を行くときにも、災いを恐れないだけでなく、魂を生き返らせてくださる主を信じ、何度倒されようとも、その都度、聖霊によって立ち上がれるのです。