都の周囲は18,000アンマである。この都の名は、その日から、「主がそこにおられる」と呼ばれる。
        (エゼキエルエル48章35節) 

前回オバデヤ書最後の聖句、「こうして王国は主のものとなる」を取り上げました。それに呼応するのがエゼキエ書を締め括っている冒頭の聖句です。それは40~48章までに記されている新しい神殿の描写です。彼に示された都の名は、「主がそこにおられる」神共に在す(インマヌエル)と呼ばれます。神は建物である神殿の中だけに居るのではなく、町全体が神殿になることを預言しています。それは聖と俗を厳格に区別していた祭司でもあるエゼキエルにとっては、大きな変革でした。都全体が神殿になる(世俗が聖となる)からです。同じことを預言者ゼカリヤも、その書の最後に記しています(14章20,21節)。日常に使われている鍋が、神殿での礼拝に使われるようになる、と。聖俗の区別が撤廃され、すべてが聖とされるのです。しかし、今の私たちは礼拝をする所を聖とし、日常生活を俗としています。そうではなく、日常のすべての場が、聖とされるべきです。そのために神の独り子キリストは、私たちと同じ人となられたのです。それは、私たちがどこにいても、何をしていても、そこにキリストは共にいてくださるからです。エゼキエルはそのことを預言しているのです。

エゼキエルが預言者として召されたのは、聖なる都エルサレムでも、神が住まわれる神殿でもない異邦人の地バビロンでした。捕囚の地でした。神から見捨てられたと思われた、その地にも神は共に居られます。そのことをエゼキエルは実感したのです。そこで示された多くの幻によって、枯れた骨のようになっていた捕囚の同胞に、希望を持って生きることを預言しました。37章は復活をも暗示していますが、亡国の民ユダの再生を預言したものです(それについては次回に記します)。そして、ヨハネ黙示録に通じる新しい神の国の描写を、エゼキエルは40~48章に記しています。その中で47章の「いのちの川」の描写は何度読んでもうれしくなります。イスラエルにある死海は塩分が濃すぎて生き物が住めない死の湖ですが、そこに命の川の水が流れ込むと、その水が浄化され、すべての生き物が生き返り、魚も非常に多くなる(47章8~12節)のです。すべてのものが生き返り、聖となるのです。

地球環境の悪化は、温暖化によって危機的な状況にまで至っています。私たちは自分で自分の首を絞めているのと同じことをしています。生き物の中で人間ほど罪深く、愚かなものは他にいません。その罪の解決と、すべての人の救いのために、神は今、業をなそうとしておられます。