主の日は、すべての国に近づいている。
お前がしたように、お前にもされる。
お前の業は、お前の頭上に返る。(オバデヤ15節)

 オバデヤ書は1章だけの預言書で、エドムへの裁きが述べられています。エドムはエサウの子孫で、その弟ヤコブの子孫であるユダがバビロン軍に滅ぼされようとしているのに、助けようともせず冷ややかに眺めていたばかりか、兄弟が滅びるのを喜んでいたことが指摘されています。兄弟ヤコブ=ユダ王国で、死海の南東地域に住むエドムは、兄弟に対して愛のない態度を取ったのです。兄弟の不幸を喜んだのです。そして,自分たちは堅固な要塞に守られているから大丈夫、と高ぶっていました。そんなエドムに対してオバデヤが語った主の言葉が、冒頭の聖句です。お前=エドム、主の日=主の裁きの日は、すべての国に近づいているとあります。聖書の読者である私たちも当然、そこに含まれています。心して聞きたいものです。

人にしたように、自分にもされる。エドムのした業はブーメランのように、自分に返って来るとの預言です。この言葉は一般的にも真理で、諺にも反映されています。人を呪わば穴二つ、天に唾(つば)する等です.Ⅰコリント13章6節に、不義を喜ばず、真実を喜ぶ、それが愛だと書かれています。人の不幸や不義を喜ばずに、人の真心と真実を喜ぶ、という意味です。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい(ローマ12章15節)とも言われています。ところが、私たちはその反対をしてしまうのです。そこで神は、その人のしたことを、今度はその人にされるのです。自分がされてみて、やっと自分のしたことが身に染みて分かるのです。その時、自分のした酷(ひど)いことを知るのです。これは逆の意味でも言えます。人に愛と思い遣りを示すと、それがいつしか自分に返って来るからです。

オバデヤ書は、「エサウの家には、生き残る者がいなくなる」と記しています。エドムの滅びを告げると同時に、イスラエルの回復が預言されています。そして、「こうして王国は主のものとなる」(21節)と結ばれています。ここを読むたびに、「主よ、御国を来たらせてください」との「主の祈り」の一節が浮かんできます。旧約の限界と人間的な思惑を超えて、全世界が主のものとなる神の国へと向かっているからです。