そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。   (エゼキエル36章31節)

自分自身を嫌悪する=悔い改めるのは、自分の罪深い行いや生き方に気づいた「そのとき」です。どうして気づいたのでしょうか。悪行や罪を指摘され、責められたからではありません。その反対です。その具体的な内容がすぐ前の25~30節に書かれています。神の清い水によって清められ、新しい霊を授けられ、頑なな石の心が取り除かれ、柔らかな心と聖霊が与えられ、すべての汚れから救われる。農作物は豊かに収穫でき、2度と飢饉に苦しむことはない。物心両面にわたって豊かに恵まれた「そのとき」、冒頭の聖句のような悔い改めが生じ、自己嫌悪するのです。罪を糾弾され罰せられるから悔い改めるのではありません。神の恵みと赦しを受けた「そのとき」、自分の罪と忌まわしさが思い起こされ、回心するのです。『レミゼラブル』の主人公ジャンバルジャンは盗みを働き逮捕されますが、ミリエル司教は暖かく迎えいれ、一切責めず、赦し、愛します。それに接した彼は心打たれ、号泣します。激しく自己嫌悪し、回心するのです。同じことをパウロは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導く(ローマ2章4節)と書いています。神の怒りではなく、憐れみが私たちを回心に導くのです。イソップの「北風と太陽」は思い出されます。

エゼキエルは冒頭の聖句に続け、次のように記す。わたしがこれを行うのは、お前たちのためではないことを知れ、と主なる神は言われる。イスラエルの家よ、恥じるがよい。自分の歩みを恥ずかしく思え。(32節) 下線を引いた「ため」は、22節でも言われています。お前たちのためではなく、わが聖なる名のために行う、と。普通に読むと「お前たちのためではなく、私のためだ」と受け取れますが、そうではありません。目的ではなく根拠を示す「ため」だからです。つまり、赦して恵みを与えるのは、私たちの行いや態度が根拠ではない、と言うことです。自分がもっときちんとした信仰になれば、もっと熱心になったら…。それが救いや祝福の根拠になると考えがちです。そうでは、ありません。私たちの行いや在り方が救いの根拠ではなく、神の恵みとキリストの贖いが救いの根拠なのです。

以上の2つのことは、エゼキエルが律法ではなく福音を語っていると知った私の忘れがたい思い出です。