第30年の4月5日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。 (エゼキエル11節) 

預言者イザヤ、エレミヤに続くのがエゼキエルです。その内容が難解かつグロテスクなため、敬遠されがちです。そのエゼキエルは前597年、2回目のバビロン捕囚で故国から連行された一人。その5年後に冒頭の聖句を記しました。30歳の彼は異国バビロンで幻を見て、神の顕現に接します。祭司ブジの子として生まれますが、自分と共に捕囚された人々に向かって神の言葉を預言者として語ります。彼が記した47章からなるエゼキエル書を、解説書の助けを借りながら読み終えた日の感慨を思い出しています。

エゼキエルはバビロンに強制連行された捕囚民に向けて語りました。神の都エルサレムから遠く離され、自分たちは見捨てられたのではないか、との思いを抱いていた人々、罪深いからこんな憂き目に遭い、神からも故国からも遠く離されてしまったと落胆していた同胞に、そうじゃない!バビロンでも神は共に居てくださると告げたのです。それを示すのが1章に記されている4つの生き物の描写です。私は何度読んでも、その映像が思い描けず、読みながら頭の中で混線してしまうのです。確かに、百聞は一見に如かずです。でもそれをエゼキエルは文字で描いているのです。そして、そこで彼は預言者として召されます。2章です。エゼキエルは神から、「人の子よ」と呼びかけられています。彼が神から遣わされたのは、「恥知らずで、強情な人々」でした。神に逆らった反逆の家、反逆の民でした。神は彼に、「彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らねばならない。彼らは反逆の家なのだ」(2章7節)と命じます。そして、語るべき言葉が記された巻物(表にも裏にも、哀歌と呻きと嘆きの言葉が書かれていた)を見せ、それを食べるよう命じます。神の言葉は読むだけでなく、食べて消化吸収すべものだからです。

神は、彼の上に超常現象である瞬間移動を行います。わたしの髪の毛の房をつかむと、霊はわたしを地と天の間に引き上げ、神の幻のうちにわたしをエルサレムへと運び、…連れて行った(83節)。バビロンに居ながら、何千キロも離れたエルサレムへと意識と霊だけが移動し、エルサレム神殿で行われていた忌まわしい偶像崇拝の数々を見聞きします。そして、バビロンの捕囚民にそれらを語ります。このようなことを経験した預言者は他にいません。正常と異常の間を揺れ動いた預言者、それがエゼキエルです。