ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。               (イザヤ6章1節) 

上記の聖句は、イザヤ言葉です。彼が預言者として召命を受けたのは、善政をしたウジヤ王の死の年でした。それまでのイザヤは、王宮で律法学者として働いていたようです。王宮に出入りできる高位にありました。その彼が神殿で祈っていた時、幻で神を見ます。そして、自分は罪に汚れた唇の者だと気づき、死を覚えます。すると天使が遣わされ、汚れと罪が取り去られます。そのとき、イザヤは「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」(6章8節)と語る主の御声を聞きます。それが預言者への召命で、そのことが6章に書かれています。これはイザヤだけの召命かも知れませんが、キリスト者すべてに当てはまります。イエスキリストを通して罪が赦され、その霊的状態が変えられ、その耳が開かれた人、それがイザヤだからです。すると、神からの召命が聞こえるようになります。本来、神はすべての人をその働きに召しておられるのです。だから、名指して「イザヤよ」とは呼びかけられていません。それなのにイザヤは、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と言わずにはいられなかったのです。神の召命は、強制的にではなく自発的になされるものだからです。上記の聖句に我々とあるのは三位一体の神(三つにして一つの神)だからです。御子イエスも聖霊も、そこにおられるのです。遣わされる時、イザヤは「預言者として成功するから行きなさい」とは、言われていません。むしろその反対で、イザヤが語っても民は聞かず、悟らないと言われているのです。何ということでしょうか。そこでイザヤは「主よ、それはいつまででしょうか」と、問いかけます。すると、100年も先の、バビロンによる国の滅亡と捕囚が示されます。しかし、捕囚から帰還する者が種子となる救いが示されます(イザヤ6章11,12節)。捕囚にされた数の十分の一の者だけが帰還するとの預言通りになりました。~エズラ記参照。

イザヤ書は1~39章と40~66章では内容に大きな変化が見られます。40章以降は捕囚からの帰還が預言されているからです。そこで第二、第三イザヤが想定されていますが、イザヤは一人です。イザヤはキリストの受難を見て(53章)、大きな希望を与えられたのです。