エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの
 祭司ヒルキヤの子であった。  (エレミヤ
11節)

 エレミヤは祭司の家に生まれ、育っています。なぜ祭司職を受け継がず、前回、記したような苦しみと戦いの多い預言者になったのでしょうか。神に召されたからです。1章4~10節に彼の召命が記されています。

神から、「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」と召されますが、次のように応えています。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」。彼の第一声は「ああ」です。呻きに似た苦悩の表現です。「わたしは語る言葉を知りません=わたしは語ることができません」と、返答しているのです。私は若者に過ぎませんから、預言するなどできません、と断わっています。しかし神は、「若者にすぎないと言ってはならない。…わたしはあなたと共にいて、必ず救い出す」と、言い渡します。

召命は個人的な事です。他者が、とやかく言えません。私たちが主を信じる信仰も、召命に当たります。職業を超えて、全生涯に関わるものだからです。キリスト者であれば皆、神の召しを受けて信じる者とされたのです。だから、すべての兄弟姉妹は、神に召されています。主イエスから「私について来なさい」と招かれ、従ったのが私たちです。主から恵みを受けるだけでなく、「わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ」(エレミヤ1章7節)と言われているのです。勿論、私たちはエレミヤと同じ預言者としての召されたのではありませんが意識しない深いところで、神に応答したのです。

ところで、エレミヤの先祖に祭司エブヤタルがいます。彼は父アヒメレクがダビデの故にサウル王の怒りを買い、祭司一族皆殺しにされた時、一人だけ難を免れたました。ダビデが召し抱えた祭司でしたが、王位継承の際、アドニヤを支持しました。そのため通常は殺されるのですが、寛大なソロモン王は彼を追放するだけに留めました。その地がアナトトでした。それから何世代も祭司として神に仕えて来ました。そんな血筋から、神はエレミヤを預言者として召されたのです。そこに、神の御手の働きを覚えます。