アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ」(アモス7章14節)
預言者は神の召命(神に召されて使命を与えられること。英語ではcalling、神に呼び出されるの意)によって立ちました。アモスもその一人でしたが、預言者としての教育も訓練も受けていません。それで冒頭の聖句を口にします。アマツヤとは祭司として王に仕える高官でした。王はヤロブアム2世で、神に背いていました。それをアモスは痛烈に糾弾したのです。そこで彼はアモスに「ユダに帰れ!2度とここでは預言するな」と命じます。するとアモスは、「主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた」からその使命のゆえに逃げ帰ったりしない、と答えます。「主なる神はその定められたことを僕なる預言者に示さずには何事もなされない。獅子がほえる、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか」(アモス3章7,8節)と、命懸けで神の言葉を語りました。
神の働きを直接的にする者に求められるのが召命です。その人たちは献身者と呼ばれ、信徒でありつつ教職者と見なされます。その時、専門的な神学教育を受けたかが問われます。そうした風潮に対抗したのが預言者アモスです。そんな教育は要らない、と言うのではありません。それが職業化する危険性に気を付けるべきなのです。アモスは一介の羊飼い・農夫でしたが、彼の預言を読んで分かるのは、学歴はなくても、天体の事などにも豊かな知識があったことです。例えれば、五十嵐健治兄が小学校しか出ていなくても、独学で多くの事を学び、漢字に詳しかったことには驚かされます。
アモスは神と共に歩み(3章3節)「イスラエルよ、お前は自分の神と出会う備えをせよ」(4章12節)と語りました。自分への預言として読みたい。
更に「見よわたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」(8章11節)と語りました。これはいつの時代にも当てはまる預言ですが、特に現代に当てはまるように思われます。主の言葉を聴きたい。しかし、それを語る人が少ない。そんな霊的な飢え渇きが、キリスト教会に起きていると指摘されています。