見よ。おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。
(イザヤ7章14節)
イザヤ書を年毎に通読する中で気づいたのは、イザヤが主イエス・キリストを指し示していることです。冒頭の聖句は、おとめマリアがイエスを産み、名をインマヌエルと付けることの預言です。9章5節にも同じ預言が記されています。イザヤは誕生したその子が成長し、主の僕となることを描きます。42章からですが、傷ついた葦を折らず、燻ぶる灯心をも消さない御方としてです。主イエスは文字通り、そのような優しく忍耐強い御方です。42章1~4節、49章1~6節、50章4~9節、そして、52章13節~53章です。見事なまでに、十字架のイエスを預言しています。700年も前に、これだけ正確に預言し得たのは、神の啓示のゆえですが、驚くべきことです。
十字架に続く復活については、イザヤ54章以降には、その直接的預言は見られません。旧約に於いては復活が殆ど示されていないからです。しかし、イザヤは25章6~10節で「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい 御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。…見よこの方こそ私たちの神。私たちは待ち望んでいた。この方が私たちを救ってくださる」と預言しています。イザヤは更に、主の再臨による新天新地の預言も65章11~25節で示しています。そのことから、聖書全体をパノラマで見るように描いているのです。その中心は、イエス・キリスト預言です。そのように読み取れた時、今までにない感銘を受けました。
聖書は旧約39巻、新約27巻,計66巻から構成されています。それと同じくイザヤ書は、前半が1~39章で、後半が40~66章の27章で、同じ数なのは偶然ではありません。イザヤ書が聖書中の聖書と言われるのは、そうした理由からです。イザヤはまるで見ているかのように、救い主イエスの誕生から十字架の死に至る主の僕を預言しています。勿論、それだけではなく、当時の政治的な背景についても言及していますが、真の救いはそこにはないことを述べています。イザヤは王宮に出入りできる身分の高い家柄に育ちましたが、その最期はマナセ王による殉教でした。