①わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。(マタイ6章12節)
②わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから。 (ルカ11章4節)
上記①と②の違いに注目します。
人と人との間に生じた負い目(負債)を、ルカは罪と言い換えています。人は神を意識した時、犯した自分の罪・過ちに気付きます。罪は赦される以外には消えません。ですから、私たちに必須なのが、罪の赦しです。パウロは、「わたしは、ギリシャ人にも未開の人にも、知恵のある人にも、果たすべき責任があります」(ローマ1章14節)と、果たすべき責任=支払うべき負債を全ての人に対して覚えました。そして、罪の赦しの福音をどうしても告げ知らせたい、と記しています。そうした自覚はあるのか、と問われます。
主の祈りを口にする時、マタイ版「私は自分に負い目のある人(自分に酷いことをした人)を赦しましたから、私の負い目も赦してください」とは祈れない。どうしても赦せないし赦していないから、「赦しましたように」とは祈れない。この思いは正直なものですが、大事な点が抜けています。それは赦す主体が自分であって、キリストによる赦しが抜け落ちているからです。キリストは赦せない私を赦してくださっています。私が赦すのではなく、私の内に住まれるキリストによって既に赦されています。そこに立たなければ「赦しましたように」とは祈れません。そのことを再確認させられます。一方、ルカは、皆、赦しますから(赦そうと努力しますから)と祈っています。赦すから赦される、赦さないなら自分も赦されないと主イエスは言われました(マタイ6章14,15節)。
78年前、フィリピンのキリノ大統領は日本兵によって、妻と3人の子全部を殺害されても赦しを選びました。それは驚くべき現実です。戦後、彼は戦犯である日本人の多くを牢獄から解放しました。そしてキリノ大統領は声明を出します。「私は妻と3人の子を殺された者として日本人を恩赦する最後の一人となるだろう。私は自分の子孫や国民に、我々の友となる日本人への憎悪の念を残さないために、恩赦という措置を講じるのだ」(8月11日の朝日新聞)。キリストは自分を苦しめ十字架にかけた者のために祈りました。「父よ、彼らをお赦しください」と。ここに、罪の赦しの原点があります。