最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは…キリストが私たちの罪のために死んだこと、葬られ、三日目に復活したこと。 (Ⅰコリント15章3,4節)

私たちの信仰の中心にあるのが、十字架の死と三日目の復活です。最も大切なこととして使徒たちが伝えてきた福音です。キリストが、私たちの罪の身代わりとなって死なれた贖いです。主の十字架は、罪のない御方が罪人として罰せられた壮絶な死でした。ゲッセマネの園で「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と、汗に血が混じる程の激しい祈りを叫ばれました。私たちと同じ罪人として死なれたキリスト、その犠牲の大きさは計り知れないものです。それを先輩兄弟らは、「主の御値打ち」と言い表しました。主は御自分の命をもって、罪の代価を支払われたのです。主イエスの福音は次の内容です。受肉(キリストが私たちと同じ人間となったクリスマス)・十字架の死による贖い・人類最後の敵である死を打ち滅ぼす復活・昇天と聖霊降臨(ペンテコステによる聖霊の内住)・そして、再臨です。

先週の一週間、福音書から主の御受難を辿ってみました。歴史上の出来事としてだけではなく、私の罪のために死なれるほどの愛として思い巡らしました。御自分の命を与える程の愛の軌跡です。そうした十字架の死と埋葬の先に復活があります。罪の解決を十字架で成し遂げられた主は、最後の敵である死に勝利するため復活されたのです(Ⅰコリント15章26節)。以前と同じ肉体で復活されたのではありません。復活の主のお体は、霊の体でした。肉体そのものが変えられています。鍵のかかった部屋の戸を難なく通り抜ける(ヨハネ20章19,26節)という、私たちには理解を超えた体です。主イエスによって復活させられたラザロやナインのやもめの息子は以前と同じ体だったので、やがて死にました。その意味で、主の復活は前代未聞の出来事でした。やがて、私たちも死にますが、それで終わりでなく復活します。それについては、Ⅰコリント15章に詳しく記されています。

聖書が私たちに最も大切なこととして伝えているのが、十字架と復活の福音です。主の復活日を迎える度に、この福音の主であるイエス・キリストへの信仰と信頼を新たにしたいものです。ハレルヤ!