主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。 主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。」 (創世記6章5~7節)

 ノアは最初の人アダムから10代目の子孫で、今から5千年以上も昔の人です。そんなにも地上では社会生活が営まれ、上記聖句のような現実がありました。それを御覧になって、神は心を痛めておられました。まさに現代も同じです。悪を除き去ろうと考え、神は大雨と大洪水によって、世界を一新する裁きを決意されます。そこでノア一家は、人々を救う巨大な箱舟の建造を命じられます。しかし、誰も救いの箱舟には入る人いませんでした。そのため生き残ったのは、ノア一家8人だけでした。裁きによって新しい世界になりました。当然、悪のない世界を予想します。ところが聖書は次のように、意外なことを伝えています。

 主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。       (創世記8章21節)

悪いから滅ぼすと言われたのに、裁きの後では、悪いけれども滅ぼすまい、と言われています。一見、矛盾しているように思えますが、決して後悔されない神が後悔し、心を痛められた結果です。神は人間に変わることを要求する前に、神御自身の方が変わることを示されました。これが福音だと気づいたのですが、驚きでした。矛盾を恐れず、神は私たちを救う道を示しておられるのです。それを契約に関して言うなら、相手が契約を破ることを承知の上で、契約違反の罰は問わないと言う意味です。こんな契約は、普通は有り得ません。そこに十字架の贖いがあります。罪を犯した人間を十字架にかけるのではなく、罪のない神の子が十字架にかけられたからです。それを暗示するのが、宥めの香りです。それは、御子イエスの十字架の死による贖いのことです。これこそ、永遠の契約なのです。聖書はこの永遠の契約=新しい契約を、福音として書き記しています。旧約聖書の中に、それも最初の書の始めの部分に、新約の福音が隠されているのです。それに気づいた時の感銘は、今も忘れ難いものです。

ノアの時代と同じく現代も、神は御心を痛めておられます。地上に人の悪が増し、戦争と破壊ばかりが続いている現実に、心を痛めておられます。そして、次の手をくだそうとされています。神を畏れることが求められます。