主なる神は人(アダム)に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」      (創世記2章16節)

神と人との契約を記したのが聖書ですが、契約と書かれていなくても、最初の人アダムに与えられた契約が冒頭の聖句です。その実を食べると、契約違反になり死が与えられます。戒めを破ったら死ぬとは、厳し過ぎるように思えます。それ以前に、なぜ禁断の木を造ったのでしょうか。善悪の知識の木をエデンの園の中央に置いたのでしょうか。もう一本、命の木も中央に生えていました。それが楽園を楽園たらしめている木々だからです。命と善悪を木にたとえたのです。

何が善で何が悪かの基準を決めるのは神であって、人間では決してありません。それから、命は神だけが創造できるものであって、人間には決して作り出せない(作ることが許されていない)領域です。楽園はその領域をわきまえ、秩序として守る所に成立します。ただ楽しく、自由奔放に生きられる所ではないのです。神と人間(最初の人アダムはその代表)との関係が正しくあること、そして、神と人が互いに信頼し合い、人は神の言われることに聞き従うこと、そこに命が通い合うのです。だから、神は信頼して戒めを与えたのです。もしそれを破るなら、死=信頼関係が断絶する=霊的な死が臨むのです。アダムとエバは、毒りんごを食べた白雪姫のように倒れて死んではいません。死には、肉体の死と霊的な死の2つがあることが示されています。善悪の知識の木の実を食べた2人はエデンの園から追放されますが、人間が神を無視して善悪の基準を決める所に楽園は存在できません。善悪の基準に違いが出て、対立と争いが生じるからです。だから神は、冒頭の聖句を命じられたのです。そして、そのような世界を永遠に続かせないため、命の木から2人は追放されたのです。意外に思われるかも知れませんが、楽園追放は神の配慮なのです。

神の命令に2人は背き、食べてはならない実を食べてしまいます。人間は神の言う通りにするロボットではなく、自由意志が与えられていて、神に従うことも背くこともできたからです。人格が認められていました。その上で、神はアダムと契約を結びますが、2人は裏切ります。しかし神は救いの道を備えられます。