食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」  (ルカ22章20節)

4つある福音書の中で、「新しい契約」とあるのはルカ福音書だけです。新しい契約は、主イエスが十字架の死を意識して語られています。出エジプト24章にモーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」(5~8節)と記されています。動物の血をもって契約を結んでいます。モーセがシナイ山で神と結んだ契約です。それは古い契約になります。動物の血による契約だからです。それに対して新しい契約は、神の子イエスの血によって結ばれます。それは死を意味します。神の契約の真剣味が生死にかかわるものであることは、アブラハム契約においても見られました。

旧約聖書に於いて「契約を結ぶ」と訳された表現は文字どおりには「契約を切る」ことだからです。契約違反をすれば、動物と同じく2つに切られる覚悟を示しています。契約はまさに「血による結びつき」、言いかえるなら、命と死にかかわる結びつきなのです。食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」、と言われました(Ⅰコリント11章25節)と、パウロは述べています。上記の記念形見と、礼拝讃美歌は解釈しています。死者を偲ぶ縁(よすが)になるのが形見で、それがパンと杯だと理解します。

血の重要さは分かるが、私たち日本人には血生臭いと思ってしまいます。でも知っておきたい。レビ17章に、「生き物の命は血の中にある。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いをするためである。血はその中の命によって贖いをするのである」(11節)、と記されていることを。また、ヘブライ9章22節には「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」と、記されています。
以上のことから、過ぎ越しの食事の後で、新しいパンを手に取って2つに裂き、杯を回し飲みされる時、冒頭の聖句「わたしの血による新しい契約である」と、語られた意味と主の御心を思い巡らしたい。