今、もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝となる。 (出エジプト19章5節)
これは神がモーセに言われた言葉で、イスラエルの民全体と契約を結ぶ時に言われました。シナイ山で結ばれたので、シナイ契約と呼ばれます。この契約は、ノアやアブラハムとの契約と違って、条件付きです
それを示す上記の聖句「わたしの契約を守るならば」が表しています。守れば、神の宝・祭司の王国・聖なる国民となるが、守らなけらばそうならないばかりか呪いを受けます。その決め手は、民が神の御声に聞き従うことです。行いが求められています。つまり人間の側の在り方次第です。それでこの契約は「行いの契約」と呼ばれます。そして、守るべき条項として律法が与えられました。神が与えた法律なので律法と書き、その代表が十戒(2枚の石の板に、神が書き記したもの)です。律法が公布された後、神とイスラエルの民との間で契約が結ばれます。出エジプト24章に、その有り様が記されています。シナイ山の麓に祭壇を築き焼き尽くす献げ物と和解の献げ物を献げ、モーセは動物の血の半分を祭壇に振りかけ、契約の書を読み上げます。民が「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、残りの血を民に振りかけ、「これは今、結ばれた契約の血である」と言います。血を流す(犠牲となって死ぬ)のは、契約者である民ではなく、身代わりの動物です。焼き尽くす献げ物の後で、和解の献げ物によって、神との和解が成立します。これは、主イエスの十字架の死の二面性を示しています。焼き尽くす=すべてを献げた生き方と死を、主イエスはそのご生涯と十字架の死によって表しました。その結果、神との和解が成立します。罪のないキリストの血によって、罪が赦されます。これは、毎主日の礼拝で行うパン裂きの型です。
ガラテヤ3章15~20節に、神の約束に立つアブラハム契約と、律法を守り行うシナイ契約との違いと関係が述べられています。律法の役目は人間の違反(罪)を明らかにするためで、それはイエス・キリストが来られる時までです。律法を守り行う契約では誰も救われず、恵みの約束を信じる契約によって救われるのは、ひとえにイエス・キリストが、私たちの受けるべき呪いを身代わって下さったからです。何という恵み!