永遠の契約の血による大牧者、わたしたちの主イエス… (ヘブライ13章20節)

 聖書は契約の書で、旧約と新約が合わさったものです。普通、新しい契約=遺言が出されると、古い契約=遺言は必要がなくなります。にもかかわらず旧約聖書を用いるのは、そこにも永遠の契約である福音が秘められているからです。その一つとして創世記9章に永遠の契約の標として虹が示されています。旧約・新約を超えるのが、永遠の契約です。だからアブラハムにも永遠の契約が示されているのです(創17章7節)。
*契約=遺言なのは、原語に遺言の意味があるからです。

聖書を何度も通読してきましたが、契約を骨組みとして理解するとき、その全体像がより明瞭になって、聖書の中心がイエス・キリストであることも理解できます。その意味で「聖書と契約」を記していますが、その背後に次のような出来事がありました。
恩真誌編集会議で、『迫りくるもの』(同信社)の連載原稿に軽い衝撃を受けました。これまで私が学んできたのは契約神学と呼ばれるものでしたが、それとは違った契約理解が示され、それが『迫りくるもの』(首藤兄編纂)だと指摘されていたからです。ディスペンセーション主義がそれで、この書は100%それだと言われたのです。そもそも,ディスペンセーションがどういう意味なのか、そこから始まって契約理解に於いて、どこがどのように違うのか、何も分かっていないと気づかされました。私たちの先輩たちが契約をどのように理解していたのか、私は分かっていないのではないのか、と思わされたのです。そこで、聖書が示している契約理解を正確に理解したいと願ったのです。ディスペンセーションの理解は、その一環です。

『迫りくるもの』の巻末に浅田正吉編、旧天地創造より新天新地に入るまでの時代進行図表があります。これがディスペンセーション(時代区分)です。こうした時代区分の背後に、契約理解が関係しています。ですから、聖書を理解する手助けと共に、これからの世界がどのように推移して行くのかを現実的に知る上でも、正しい契約理解が必要です。それをご一緒に学んでいきたいのです。これまで、アダム、ノア、アブラハムの関する契約を読んできましたが、次回から、モーセの契約、ダビデの契約を取り上げて行きます。