日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。 (創世記15章17、18節)
神がアブラハムと契約を結ばれる時、牛・羊・山羊を2つに裂いて左右に置き、その間を契約者が通り抜けました。契約違反をすれば、これらの動物のようになる死を、お互いに自覚しました。それほどの覚悟を示しています。わが国にも「血判状」という契約書が交わされました。冒頭の聖句は、動物の間を通り過ぎたのが、煙を吐く炉と燃える松明、即ち、神だけであったことが示されています。当事者のアブラムは通っていません。彼は神から来る深い眠りに襲われて、動けなかったからです。眠りの中にあるアブラムに、彼の子孫に起きる400年先のことを、神は語ります(15章13~16節)。それはモーセによるエジプト脱出のことでそのことを約束しています。そして、その日、両者は契約を結びました。しかし…と思わないでしょうか。契約調印式の時、アブラムは眠って(正確には、眠らされて)いて、2つに裂かれた動物の間を通り過ぎていないからです。これは何を意味しているのでしょうか?
契約違反の罰は、契約を結んだ両者に臨むのが本来です。ところが、契約の主である神は、僕であるアブラムに対して違反の罰と呪いを求めなかったのです。神だけが裂かれた動物の間を通り過ぎたのは、そのためです。すべての責任は神にあり、神が契約違反の呪いを負うことを意味しています。公平ではない、と言えます。しかし、そこに神の摂理があり、愛が溢れています。多くの民の中から選ばれたアブラハムであろうとも、人間の側では神との契約を守れないことをご存じなのです。そこで救いの約束を伝えて、神だけが違反の呪いを受けることを示さたのです。それゆえ、アブラムとの契約は一方的な恵みの契約(新しい契約)であり、その成就が、主イエスの十字架の死なのです。
アブラムは創世記12章で、最初から祝福の源になると約束されています。何か善をしたから祝福する、とは言われていません。約束の地を目指して一歩を踏み出す前から祝福されて出発しています。それが、前述した契約調印の場でも示されているのです。旧約聖書の中に新約の福音が隠されていることに気づかされ、目が開かれる思いです。