賛美:新しい歌を主に向かって歌え。(詩編961節)

・わが心、讃えよ主を、いのちの主、聖なる御名。
・恐れるな、煩うな、主は共におられる。満たされる
あなたは神によって。(テゼの歌2曲)
・主我を愛す 主は強ければ 我弱くとも 恐れはあらじ
わが主イエス わが主イエス わが主イエス 我を愛す。

祈り:主よ、祈りを教えてください。(ルカ111節)

祈りには、成文祈祷と自由祈祷の2つの形があります.聞きなれない言葉かも知れませんが、プロテスタント教会では自由祈祷がなされ、カトリックと聖公会では文章化された成文祈祷が用いられ、自分の言葉で自由に祈ることは原則しません。その両者を比較しますと,自由祈祷はしばしば主観的で散漫になり、ともすると長い祈りに陥りやすいのに対し、成文祈祷は良く準備され、適切な言葉を選び、主観的過ぎない点です。その半面、祈りを機械的に反復することになります。つまり、どちらにも一長一短があるわけです。
成文祈祷である「平和の祈り」を交読します。今こそ平和が求められているからです。その後で、各自が同時に心の中で静かに平和を祈りました。祈りは、父なる神への呼びかけで始まり、主イエス・キリストの御名によって祈りますアーメン、と結ばれます。主イエスが「私の名によって祈りなさい」と3度も繰り返されたからです
(ヨハネ14章13,14節、15章16節、16章23、24節)。

聖書:詩編をこれから1編ずつ読んで行きます。

   いかに幸いなことか・・・
  主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。
  その人は流れのほとりに植えられた木。
  ときが来れば実を結び、葉もしおれることがない。
  その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
  神に逆らう者はそうではない。・・・・(11~4節)

詩編は編集されています。編集者である聖霊なる神は150編の詩を収集し、モーセ書と同じ巻に分け、その冒頭に、第1編を置きました。その意図は何でしょうか。
神を信じ、神の言葉である聖書を昼も夜も読み口ずさむ人は、いかに幸いなことか。その人は流れのほとりに植えられた木のようで、とき(季)が巡り来れば必ず実を結び、葉も萎れない。その木は荒野に植わっていて実を結ばないものだったが、神の憐れみと恵みによって水のほとりに移し植えられたのです。キリスト者は、そうされた者たちです。
その人のすることは「すべて」、神の祝福を受けます。そこに確かな幸いがあります。