ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。 (ヨブ記1章1節)

ヨブ記はこのように書き始められています。ウツは異教の地。だからヨブは異邦人で、聖書の民ではありません。それなのに神に対する姿勢に於いて完全で、社会的に公正で、神を畏敬する人でした。彼は架空の人物ではありません。だから、預言者エゼキエルは、「3人の人物、ノア、ダニエル、ヨブ」(14章14節)と記しています。信仰、人格と品性において模範的な人物でした。そんなヨブの上に、次々と襲いかかる災難と病気。なぜ、ヨブのような人物が、そうした酷い苦難に遭うのか。それがヨブ記の主題ですが、それ以外にももっと多様性が秘められています。その1つが、カウンセリング的な読み方です。対話の仕方についても学べます。今回はそのことについて記します。

友人らは遠方から、労苦をいとわずヨブを慰めようと駆けつけました。そして余りの惨状に言葉を失い、共に嘆き悲しみました。にもかかわらず、ヨブの絶望する言葉を聞くと、彼を諫め始めます。そして、伝統的な教えである因果応報で、苦難の説明を始めます。すべては罪の結果だと、子らの事故死を説明します。ヨブの反論には、耳を傾けようともしません。3人共同じです。ツォファルは感情的になって、ヨブを裁きます。これに怒り、ヨブも露骨に友を批判します。その結果、論争は平行線のまま終わり、口を閉じます。

冒頭の聖句の通り、ヨブは完全なまでに罪から遠い人でした。それなのに友は、何か隠している罪があるに違いない、と疑いました。対話やカウンセリングが行き詰まるのは明らかです。その意味では、三友は反面教師ですが、私は自分のこれまでの失敗を見せられます。それは私だけの事ではないのかも知れません。 続いて登場したエリフは、別の視点からヨブを諭します。災禍を罪の罰ではなく、神の教育的配慮だと説き苦難の中で目を開かせるためだと語ります。その後で神がヨブに語りかけます。ヨブの問いかけに対して、神は逆に質問の矢を連射します。自分が何者であるか本当の問題はどこにあるのかを考えさせ、自分で答えを見いださせるためです。ヨブの罪については何も指摘しないのに、彼を悔い改めに導いています。それが回心に導く対話です。ヨブ記はそれを示しています。