私は知っている。私を贖う方は生きておられ後の日に塵の上に立たれる。私の皮膚がこのように剥ぎ取られた後、私は肉を離れ、神を仰ぎ見る。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。私のはらわた(腸)は私の内で焦がれる。(ヨブ記19章25~27節)
上記は聖書協会共同訳です。ヨブ記は42章ありますから、ほぼ中間です。そして、これがヨブ記の頂点です。ヨブは3人の友から、こうなったのは罪を犯した結果だと言われ続けます。精神的に追い詰められ、肉体的にも限界を覚えます。その時、冒頭の言葉を絞り出すように口にします。その直前にヨブは訴えます。
21節 憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ神の手がわたしに触れたのだ。あなたたたちはわたしの友ではないか。22節 なぜ、あなたたちまで神と一緒 になってわたしを追い詰めるのか。
四面楚歌に追い詰められた時、誰もが上を見ます。天を仰ぎます。問題は、何を見るかです。ヨブは、神ならぬ神であるイエス・キリストを仰ぎ見たのです。勿論、まだ見えてはいません。しかし焦点が主イエスに絞られています。こういうと、旧約聖書に主イエスは登場しない、と言われるかも知れません。しかし、旧約聖書は、主イエスに在って読み、解釈したいのです。それが信仰的な読み方であり、解釈だからです。聖書は、主イエスを証しするものだからです。ヨブ記も例外ではありません。
ヨブと主イエスを重ね合わせます。ヨブは、自分を救い贖ってくださるのは主イエス以外にいないことを知りました。だから、「私は知っている、私を贖う方は生きておられる」と言いました。後の日とは死後のことで、塵の上に立たれるとは塵に過ぎない自分の上に弁護者、救い主として立ってくださるとの確信です。その時、この目で主イエスを見る(仰ぎ見る=十字架の主を見る)と預言しています。自分の、この目で確かに見る、それこそ恋い焦がれる思いで見るのではらわた(腸)が波打つばかり。ここには、死を超えて生きる復活が示されています。
ここでもう一度、自分の言葉として、冒頭の聖句を読みたいのです。ヨブは、十字架の主キリストを仰ぎ見ようとしました。旧約時代にありながら、時空を超え贖い主を求めました。ましてや私たちは尚更です。