やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、言った。「わたしの生まれた日は消え失せよ。…」(ヨブ3章1~3節)
ヨブ記が私たちに語りかけるメッセージを聴き取り文章に表せることを願って、祈ります。
ヨブ記の構成は、1,2章が「事の始まり」という悲惨な出来事で始まりますが、最後の42章に「事の終わり」が書かれ、ハッピーエンドで結ばれています。散文で書かれ、ヨブ記の外枠に当ります。本論は、詩文で書かれ、さっと通読しただけでは、意味や内容が頭に入ってきません。それが正直な感想です。そこを超えるために、再度、ヨブ記に挑戦してみましょう。
冒頭の聖句は、生きている意味が分からなくなったヨブの嘆きです。東の国一番の富豪として、また、10人もの子どもに恵まれ、社会的地位や名声にも恵まれていたのに、瞬く間に、一切を失ったのです。強奪されたと言っても良いでしょう。その上、忌み嫌われる難病で苦しんでいるのが、主人公のヨブです。そうな った原因は、天上での神とサタンの話し合いにありますが、そうした事をヨブは何も知らされていません。しかしヨブ記作者は、それを読者には知らせた上で、ヨブと3友人の論争を記します。その後、青年エリフが語り、最後に神がヨブに語りかけます。本論です。
フランクルは第二次世界大戦下、ユダヤ人としてナチスに捕らえられ、4つの収容所生活を体験します。戦後解放され、その体験を『夜と霧』他に記します。彼は、「人を生かすものは、生きている意味を見出せるかどうかにある」と言いました。収容所で生き残れた人は、その意味を掴んでいたからです。希望を持っていたのです。彼の言葉を今回改めて読み、ヨブと結びついたのです。ナチスによって一切の財産、地位と名誉、更には家族まで奪われ、文字通り裸にされました。強制収容所での極悪な環境下で貧しい食事しか与えられないため、多くの人が病に倒れます。ヨブと同じです。冒頭の聖句は、生きている意味を完全に喪失した人の言葉です。不条理で、理由の分からない苦しみの中で生きる意味を見失い、信仰も失いかけようとしているのです。1~2章に示されているヨブの素晴らしい信仰さえ、脆(もろ)くも崩れようとしています。そのような中でも、ヨブは救い主を求め続けました。