今日は、今年最後の主日です。今年も残すところ数日です。年の初めを振り返って、この一年を思い巡らします。始めがあれば終わりがあります。この世界、私たちの人生にも終わりがあります。悪が裁かれ、罰せられます。そうでなければ神の義が成り立ちません。神の愛は語りやすいですが神の義から来る怒りは語りにくいものです。義の怒りをもって主イエスは、悪と不正を最後には正しく裁かれます。それを描いたミケランジェロの巨大な壁画「最後の審判」を思い浮べます。中央には怒る主イエスがいます。天国へと引き上げられる人々と、地獄へと堕とされる人々が描かれています。それは世の終わりの時ですが、人生最期の時でもあります。その時がいつなのかは分かりません。でも、必ず来ます。全ての人に生涯の終わりが来るのと同じです。その時、主から「忠実な良い僕よ」と言われるか、否かが分かれます。しかし、心配しないでください。神の義と愛は1枚のコインの表と裏の関係にあるからです。神の怒りと赦しも同じなのです。
「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(Ⅱコリント5章10節)これは厳粛な場です。救いは信仰によって与えられますが、裁きは行いに応じて報われます。ある意味、公平です。しかし、誰もが案じるのは、善よりも悪の方が多かったのではないかということです。信仰よりも不信に傾いていること愛し赦すことの難しさです。地獄に堕ちるほかない自分です。だから、大晦日には罪の悔い改めをします。
自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。 (ローマ12章19節)
神が裁かれる復讐は、私たちが行う復讐とは本質的に違います。次の聖句が鍵です。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」(20節)に続きます。神がご自分に敵対する人間への裁きと復讐が読み取れます。神は、赦し難い者を赦し、罰すべき者を逆に憐れみ愛します。それによって私たちの頭に燃える炭火を積む(良心の呵責が生じる)のです。火の池、針の山で、ただ罰し苦しめるのが人間の裁きですが、神の裁きは全く違います。神を畏れるのは刑罰の故ではなく、何と赦されるからです。赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです(詩130編4節)