あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。(創世記50章20節)
前回に続き摂理について、創世記のヨセフ物語から記します。冒頭の聖句は、ヨセフが10人の兄に向って話した言葉です。悪とは、弟ヨセフを嫉んで外国に奴隷として売り飛ばしたことです。ヨセフが17歳の時でした。坊ちゃん育ちから、いきなり過酷な奴隷に落とされたのです。どれほど兄たちを恨み、憎んだことでしょうか。それから20年以上の時間が過ぎ、彼は何とエジプトの総理大臣に。そして兄たちと対面。その時ヨセフは兄たちを許していましたから、「私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。でも、そのことを悔んだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私を兄さんたちより先に遣わされたのです。すべては神がなさったことです」と、語りかけたのです。驚くべき言葉です。人間の犯した悪をも、神は時間という轆轤(ろくろ)によって善に変えてしまわれます。そこには、ヨセフの信仰が働いています。しかし、ヨセフが兄たちの酷い仕打ちを、いつ許したのか、何がそうさせたのかは何も書かれていません。ただし、時間が必要だったことは確かです。
変えられない過去の出来事も、受け取り方(解釈)でまるで違うようになります。17歳のヨセフは、奴隷として売られ、泣き叫ぶほどの辛い思いを味わいました。しかし、いつまでも兄たちを恨み続けませんでした。起きた出来事に、神の働きを見たからです。そうすると全く違って受け取れます。兄たちがした悪が、神が摂理によって善(救い)に変えてしまわれるからです。摂理を言葉で説明するのではなく、ルツ記やエステル記と共に、物語を通して伝えています。それが聖書です。聖書全体が神の摂理を説いているからです。
何の罪もないイエスを犯罪者として十字架刑にかけた人間の罪。それは、恐るべき罪です。ところが神は人間の犯した最大の罪を逆手に取って、善である救いに変えられました。それが十字架による救いです。そしてヨセフが兄たちを許したように、イエスも赦しを祈りました。ヨセフは冤罪で牢獄に入れられますが、後に総理大臣にまで引き上げられます。十字架により陰府に降られた主は、復活し天へと引き上げられます。ヨセフはイエスを指し示す型です。
私たちの日々にもこの摂理が働き、救いへと導かれているのです。