そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり」と言っている。(創世記22章14節)
聖書には出て来ませんが、重要な言葉として、三位一体と摂理があります。その摂理について記します。
摂理は、神がすべての出来事を支配していること、そして、神を愛する者のために働いて、すべてを益としてくださるのです。マイナスにしか思えなかった出来事も、神の手によってプラスに変えられるのです。摂理は「天の配剤」とも呼ばれます。ですから、摂理の反対は偶然です。聖書は言います、偶然はない、と。
冒頭の聖句は、アブラハムが「独り子イサクをいけにえとして献げよ」と命じられ従った時のことです。イサクを祭壇の上に寝かせ、屠ろうとした瞬間、神は止めます。まさに、刃を振り下ろそうとした刹那のことです。その時、アブラハムの耳に雄羊の鳴き声が聞こえます。神が用意しておられたのです。それに気づき、イサクに代わるいけにえとして献げます。そして、その場所をアブラハムはヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けます。そして、冒頭の聖句が続きます。必要な物は、神が備えてくださいます。一番大切な独り子さえ献げようとした時、摂理の神が働かれます。主の山に備えあり、今もその通りです。
旧約聖書のルツ記とエステル記は、この摂理を物語として表現しています。ルツが落ち穂拾いに出かけた畑は「はからずも」ボアズの畑地でした。ルツが自分を捨てて従った時、神は摂理によってボアズと出会わせてくださったのです。次にエステル記。ハマンの策略によって出されたユダヤ人絶滅令を知らされ、エステルは死を覚悟して祈ります。そして、王とハマンの2人だけを酒宴に招待します。王から「何なりと願い事を言いなさい」と言われますが、エステルはもう一晩待ちます。その夜、事態が変化し始めるのです。そこに神の摂理が働きます。それは命懸けの祈りによってです。人生に偶然はありません。神は私たちの人生のすべてを支配し給う御方です。日常の、どんな小さな出来事の背後にも神の摂理が働くことを覚えるなら、どんな時でも希望の光を見ることができます。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるようにと共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8章28節)